道幅ギリギリの転回にドキドキ!
尾張の殿さまも喜んだ初夏の祭り
2018.2.26
1802年、天王社で牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀り疫病退散を願う祭りとして始まった尾張西枇杷島まつりは、毎年6月の第1土・日曜に開催されます。漆と金箔が施された5輌の山車が、美濃路を勇壮に練り歩き、からくり技を披露。土曜の夜は庄内川で花火大会が行われ、2日間で20万人もの人出があります。
行く前に見どころをチェック!
- 曲場(まえば)
- まつりのクライマックスは、重さ4トンもの山車を半回転させる「曲場(まえば)」。
円陣を組み、気合を入れた楫方(かじかた)たちは、互いに身体をぴったりと寄せあって、棒を一気に担ぎ上げます。そして、前輪が地上に浮くと、後輪に棒を差し入れて、じりじりと山車の向きを変えていきます。肩に棒をめりこませ、重さに顔をゆがませながらも懸命にこらえる男衆、鼓舞するようにテンポを速めたお囃子と采振り人形の動きが共鳴するクライマックスは、観客も思わず息をのむ瞬間です。
成功すると歓声と拍手が沸き起こり、祭りならではの一体感に包まれます。
<祭りを動かす人たち>
祭りについてアレコレ聞いてみました
西枇杷島まつり山車保存会 会長 箕浦信夫さん
西枇杷島まつり山車保存会 副会長 深瀬鉦司さん
- なぜ西枇杷島でこのような山車、まつりが生まれたのですか?
- 西枇杷島本通り(旧美濃路)には、この700mほどの中に、苗字帯刀が許された者が5名もいましたし、昭和初期の記録では銀行が7つあったといいます。ここは江戸時代から将軍様の台所として「枇杷島市場(下小田井の市)」がたち、とても栄えました。その圧倒的な財力を元手に、山車を持つ豪商がいたということです。残念ながら今は見る影もないですが(笑)、祭りにはその時の繁栄の様子を感じられると思います。
- なぜ西枇杷島まつりは「名古屋東照宮の祭礼の形態を引き継ぐ祭」と
いわれるのですか? - 豪商たちは名古屋祭りでも寄進を行うようになり、地元でもそれらと同じ名古屋型の山車を作りました。名古屋東照宮の山車は第二次大戦で焼失してしまったため、被害を受けなかった西枇杷島の山車が、最も典型的な名古屋型の山車として残っているのです。
- 祭り好きの尾張藩主が気に入っていた祭りだそうですね。
- 10代藩主・斉朝(なりとも)さんはからくりや四輌揃え、お囃子などを競わせて、褒美を与えました。祭りが目的だとは言えないものですから、鷹狩りと言っては寄っていたそうです。「東六軒町」では太鼓を、「西六軒町」ではあやめ色の幕を、問屋町ではコウモリの刺繍の入った太鼓をいただきました。
- なぜ「曲場」という特殊な方法で曲がるのですか?
- それは山車の通る道が狭いからですよ。道の幅は約6m、山車の幅も約6m。街道沿いの家が道路から少し後ろに下がっているところを使って、少しずつ曲がります。下手すれば家が壊れてしまいますので(笑)、やっているほうも必死だし、見ているほうもハラハラ。成功した時は、観客からものすごい大歓声があがります。梶方の男衆は、肩に「かつぎこぶ」ができて1週間は泣くほど痛いですが、それも勲章ですね。
- まつりには2日間で20万人もの人が訪れるそうですね。
- 土曜日の夜には花火大会が行われ、これが「愛知県で最も早い花火大会」ということで、その年の新作花火の初披露が行われるそうです。それを目当てに全国から写真を撮りに来るようになったそうで、他県の方も多く訪れているようです。